あじさい通り

日記的ななにか

京都への憧れ、あるいは、バラ色のキャンパスライフへの渇望

 京都の大学生に憧れるようになったのは不運にも関東の大学に進学した後だった。大学1年のころ、ツイッターのタイムラインに流れてきた書評家の三宅香帆さんのブログの記事、「鴨川を語る詩人になれなくて」を読み京都での学生生活と鴨川に心底憧れた。次の春休みには鴨川を眺めたいがためにわざわざ京都まで旅行にでかけた。ろくに下調べをしていなかったので、翌日に向かった稲荷伏見神社では近くに荷物の保管場所が見つからず、スーツケースを両手に抱えて登るはめになったのは恥ずかしくて苦い思い出だ。

 実際に現地に赴いてしまうくらい憧れていたわけだが、当時は気づかなかったが京都での学生生活そのものよりも、京都で学生生活を送った彼ら/彼女らが語る友人たちとの楽しげな思い出に憧れていたのだと今ではわかる。それくらい京都で学生時代を過ごしだ人の話は魅力的に聞こえていた。その思い出の象徴的なものとしてきっと鴨川もあるのだろう。

 サークル、学部、バイト仲間らと鴨川でビールを飲んだり、花見をしたり、大学構内でサンマを焼いたり、一人暮らしの宅に数人集まり明け方までだらだらと喋るといった話を聞くと自分のこれまでの学生生活とつい比較して「いいな~」と思ってしまう。いや、決してその類の思い出が全くないわけではないし、宅飲みも頻繁にやっていた時期もあったがそれでも大学生活において全般的に人間関係が希薄だったと感じている。京都の大学生にさえなればこれらの楽しい経験も自動的に享受できるのではないかと無意識のうちに考えていた。

 僕の世代はちょうど大学入学とコロナの感染の時期が被り、1年の前期は授業は全てオンラインで全く学校に通っていなかった。それの影響もあってか高校の同期や大学の友人の話を聞いても友人を思うようにつくれないといった話を聞くことが多かった。もちろん、ゼミやサークルに入り順調にやっていけてる人も周りにいたが、コロナの前の世代と比べるとその割合は少なくなっているのではないかと推測している。

 

 

 

 ここまで書いてきて気づいたけれど、四畳半神話大系の主人公のような考えでしかないな。あのとき違う選択肢をとっていればと後悔するも結局は似たような結末に終わる。近年の大学のコミュニティ論的な話をするつもりだったけど、結局は個人によるし楽しんでる人はちゃんと楽しんでるよなぁ。

 四畳半に出て来る人物、樋口師匠はこの作品を象徴するような言葉を主人公に告げる。

「我々の大方の苦労はあり得べき別の人生を夢想するところから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ。」(p.151)

 樋口師匠の意見はたしかに納得できる。あのときああしていればと考えてばかりいても何も進展はしない。しかし、だからと言ってこの先の未来まで諦める必要はないように思う。たとえこれまでが雑多な色だったとしても少しでもこの先バラ色に近づくような努力は怠らないようにしたい。

 とりあえず今度京都に行ったときは高校の友人でも誘って鴨川でじっくり話してみたいし、大学のキャンパスでサンマを焼くことを卒業までの目標にしよう。